地平線への鍵 【Sound Horizon考察】

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『涯景』〜澪音の世界〜 Part2

 男の声も無き呻吟に誘われでもしたのだろうか。蕩々と降りしきる小雨を道連れに、その少女は現れた。
 彼の末の娘と同じ年頃と思しき、まだあどけなさが印象に先立つ容姿。だが、目を患ってでもいるのか、彼女の双眸は長い睫毛に縁取られた目蓋に閉ざされていた。
 白い繊手には一本の頑丈そうな赤紐が握られており、その先には、舌を出して白い息を吐き続ける一匹の犬が繋がれている。それは彼の見た事のない犬種だったが、見事な黒銀の毛並みと黄銅の鋭い眼が酷く印象的だった。見たところ、黙祷を捧げるかのように瞳を閉ざした少女が危なげなく歩けるのは、この主人に忠実なる気高き獣の為らしかった。
 その来訪は、彼にとって驚きと戸惑い、そして小さな喜びを伴う出来事だった。
 この得体の知れない場所に、他にも人間が居たという安堵。少女達が地を踏みしめる足音だけは、不思議と己の耳にも届いたという訝しさ。何より、先程から聞こえていた声の主が、目の前の少女なのではないかという疑念。
 しかしそれらは、ともすれば崩壊の寸前にあった彼の精神にとって、確かな救済の手に他ならなかった。得てして、自我の確立には他人という存在を必要とする。それ故、例え相手の素性が判然としなくとも、誰かが其処に居るという事実の重みに比べれば、彼にとって大した問題ではなかった。
 だが、いったいどうしたものだろうか。少女に声を掛けようにも、今の彼にはその術が無い。目の見えぬ相手に己の存在を報せる手段は、尽く封じられたままなのだから。
 そもそも彼は、今の己に実体のようなものが在るのかどうかすら、確証を持てぬままの状態なのだ。少女が何も気付かずに通り過ぎてしまう可能性の方こそ、かなりの確率を占めるのではなかろうか。
 されど、そうした先頃までのものとは別種の不安感が、彼の内で首をもたげかけた瞬間、少女を先導する従者の方が不意に四つ足の歩みを止め、まるで子供に優しく語りかけるかのような調子で、小さく吠えたではないか。
 ふと、犬の吠え声などに、そんな感覚を受けるのを奇異に思った彼であったが、その聴覚が奇妙な言葉を耳にするに至り、唖然とせずには居られなかった。
「そう。此処に居るのね。ありがとう、アグワット」
 まるで犬と会話が成立しているかのような、その物言い。この年頃の少女らしからぬ、妙に大人びた凛然とした声音。
 しかし、重要なのはそんな事ではなかった。始めから彼の居場所を探していたかのような台詞が示す、その意味は……。
「こんにちわ、おじさん。今日も良い天気だね」
 そう、尚も降りしきる雨の中に佇みながら、頭頂から爪先まで唯の一カ所も濡れてはいないこの少女こそ、最前の声の主に他ならぬ事を示唆していた。

(君は……何者なんだ? 君は、此処がどこだか判るのかね?)
 この娘が先程の声の主であるなら、こちらの考えている事は理解できる筈だ。そう思い、彼は脳裏で質問の言葉を口にしていた。
 果たして、それは予想した通りの結果を彼にもたらした。
「ふうん。呑み込みが早いんだね、おじさん。大抵の人はワタシを見ると、支離滅裂に喚き立てるだけなのに」
 鈴を鳴らすような声の中に、ほんの少しの驚きと、それと同じ分量の楽しげな調子を混合させて、少女は口元を綻ばせた。けれどそれは、彼の問いに対する答えではなく、単に彼女の感想を述べているだけのものだ。
 こちらの事情など全て理解していると思われる相手にこの様な態度で接され、もともと気に長い方ではなかった彼は猛然たる怒気を覚えた。
(ふざけるなよ小娘が! 私を誰だと思っている? 私はあの……)
 だが、激昂するままに罵声を投げつけようとした、その時。
「とある国の公爵閣下。お妃様を誑かして王様を暗殺し、王家に女の子しか居なかったのを良い事に自分の息子を王位に着け、岳父として国政を壟断。自分が気に入らない人間は、どんなに功績のあった人でも首を切った、とっても怖い人。でしょう?」
 先を遮るように、少女がつらつらと並べ立てたその内容に、彼は完全に二の句が継げなくなってしまった。それは全て、客観的な真実に他ならなかったのである。少女が見透かしているのは、何も言葉として考えた事のみではなかったのだ。
「ワタシが知ってるの、不思議そうだね? でもね、おじさんには見えてるでしょう? どんなに隠そうとしても、この場所がワタシに全部教えてくれるんだよ。だって此処は……」
 全てが丸裸にされているのだという事実に愕然とし、次いで凄まじいまでの恐怖が込み上げた。辛うじて取り繕っていた彼の冷静さは、この瞬間に至極あっさりと瓦解した。もはや言の葉としての体裁すら整わぬ雑然たる思考の波が、感情という灯火を支柱にして紡がれ、ただ傲然と彼の周囲を吹き荒れた。
「なんだ。結局はおじさんもそうなっちゃうんだね。そんな事しても、もう手遅れなんだよ?」
 しかし、少女の声はもう、彼には届かないようだった。暫し可愛らしく小首を傾げていた彼女は、そうと知って小さな溜息を吐くと、手にしていた赤い紐を軽く引っ張り、その場に座り込みじっと男を凝視していた――男の居ると思しき場所を確かに認識していた――四つ足の友の名を呼んだ。
「アグワット!」
 その声に応えるように、黒銀の犬がけたたましく吠え立てた。途端、嵐のように荒れ狂っていた感情の渦が一瞬で霧散し、彼は魂の抜けきったような思いで再び少女とその従者の姿を目にしていた。
 いったいこれは、何の冗談なのだろうか。夢にしては妙に現実味があるし、その癖、実感として残るようなものは欠片も存在しないのだ。己はとうに気が違ってしまっているのではないかという思いが、彼の胸中を静かに満たし始めていた。
「そう、良い子だから静かにね。心を穏やかに落ち着けて、ありのままを受け入れるの」
(そうだ。これらも全て、己の狂気が生み出した幻想に相違ない。この様な場所がある筈もないし、ここには私以外に誰も居ないのだ。ああ、そうか。きっと私は疲れているのだな。目が覚めたなら、地中海の望める別邸にでも……)
 しかし、少女の言葉は再び無為と化した。狂気の一歩手前にまで達してしまった彼の精神は、僅かに残された感覚が伝えてくる事象の全てさえ、受け入れる事を拒否してしまっている。
 これでは駄目なのだ。少女の担う役目にとって、混沌とした雑念は邪魔な要素でしかない。
 鏡のように凪いだ湖面の如き、安定の極みたる秩序だった心。それを確立した者でなくば、あの場所に連れて行く訳にはゆかぬのだから。
「……駄目、みたいだね。いいよ。だったら、ワタシもいつものようにするだけだから」
 ならば、どうするのか。囂々と渦巻いた妄念を払拭するには、どの様な手段が効果的だろうか。
 その為に少女がいつも選択するのは、極めて効率的でありながら、限りなく無慈悲な代物だった。
 究極の安定は、“無”にも同義。ならば一度、全てを壊してしまえば良いのだ。
「おじさん」
 その声は、今までのものとは何処か違う響きを持っていた。言うなれば、強制力のようなものを秘めていたようだ。
 そうと知れたのは思考が明瞭さを取り戻し、視界いっぱいに少女の整った顔立ちを映し出している事に、彼が気付いたからだった。
 そして、ついにそれは始まった。
(なん……なのだ……? これ……は……)
 閉ざされていた、否、“閉ざされなくばならなかった”少女の瞳が、今にも開かれようとしていた。
 彼の奥底に眠っていた勘が、生物としての本能が、煩いほどに警鐘を鳴り響かせていた。

――見るな。見てはいけない。“それ”を、私に見せないでくれ!

 けれども、彼の意思に従う肉体はとうに朽ち果て、視界を遮る術は何一つ存在しない。
 須臾と刹那を重ねる間に、少女の目蓋が静かに上げられてゆき……。
 薄水色の虹彩に縁取られた、その氷の様な瞳を彼の網膜が映し出した瞬間、彼はそれを見出した。
 記憶が甦る。昨夜、寝台に身を横たえようとしたその時、左胸に猛烈な痛みを覚え、そのまま私は……。
 狂気に満ちた鶏鳴の如き絶叫が、静寂に支配された廃墟を切り裂く。そして、彼の“世界”は完全に崩壊した。

 何処までも続く荒野。ぽつねんと佇む、一人の少女。
 正確には、傍らには忠実なる四つ足の友。見事な黒銀の毛並みを震わせ、飼い主たる彼女に小さく吠える。
「そうだね。往こうか、アグワット」
 そして、彼女は歩み始めた。延々と眼前に映し出される地平線を目指し、終わる事の無い旅路を。
 これまでも。これからも。
 唯、人の世が終わるまで……。

                                           『涯景』 了
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