地平線への鍵 【Sound Horizon考察】

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『涯景』〜澪音の世界〜 Part1

 その目覚めに当たり、彼を襲ったのは不可解な違和感だった。
 奇妙に身体が浮いているような感覚、とでも言うのだろうか。まるで無重力空間を遊泳しているような――彼には一度もそんな経験は無いが――なんとも形容し難い不安定さを感じずには居られなかったのだ。
 ごく稀にではあるが、夢の内容などによっては眠りからの覚醒の間際に落下感を覚え、はっと目を覚ますというような経験もある事から、始めはそうしたものの亜種であろうかとも考えた。
 しかし、この不快な感覚は瞬間的に訪れるものにあらず、酷く永続的なものだった。いや、それも違う。真に正しく言うなれば、これは……。

――何も感じない?

 瞬間、脳裏に浮かびかけた内容を、誰かの声で的確に言い当てられた。
 驚愕に跳ね起きようとした途端、彼はそれが適わぬ事に再度愕然とする事となる。数十年の時を経て、多少は衰えたといえど尚も頑健が自慢であった己の身体が、主人たる彼の意思を完全に裏切っていたのだ。
 ところが、一つだけ自由になったものがあった。視覚だ。両の眼(まなこ)だけはしっかと見開かれ、彼に目の前の、周囲の風景の断片を明確に伝えてきた。
 されど、それは彼の精神に途方もない打撃を加え、余りの事に思考の一切が白光に染め上げられてしまった。
 そこに見たものは、一面の蒼空。染み入るような深い青味を備えた天の海原が、ただ延々と彼の視界を埋め尽くしていたのである。
 彼にとって、それは有り得ざる光景だった。昨夜はいつもと同じように家族と過ごし、子供達におやすみのキスをした後、妻と共に寝室のベッドに入った筈なのだから。それはもう、何年も続けられてきた習慣であり、記憶を違えるような事は絶対に考えられなかった。
 だが、現実にはどうだ。自分は何処とも知れぬ場所に横たわり、広漠たる青空を見上げている。
 とりとめもなく紡がれた思考がそれを認識し、彼はようやく我に返った。
(そうだ。此処はいったい、何処なのだ。まずはそれを確認しなくては……)
 そう思い至った瞬間、彼は悲鳴をあげそうになった。否、正確にはあげた筈だった。
 首を廻らせたという感覚をまるで感じぬままに、ただ視界だけが彼の意に従って方向を変えたのである。
 そうなのだ。未だに彼には、感覚というものが戻ってくる徴候が無かった。眼前に空が広がっているのならば何処かに横たわっているはずなのに、背中に柔らかなシーツの感触や、はたまた此処が実は剥き出しの地面であるとかいった風に、身体に感じるべきものが一切消え去ったままなのだ。
 それでいて、眼球は己の意志に添って映像を伝えてくる。が、今度は目を閉じる事が出来なくなっている事に気付いた。今の彼には、ただ一度の瞬きをする事でされ、決して適わぬ行為と成り果てていた。
 故に、それは彼の目に飛び込んできた。長い年月を風雨に晒されて来たと思しき、ギリシアか何処かの神殿を思わせるような列柱が居並んでいるかと思えば、これも朽ち果てた宮殿や教会を連想させるような豪奢な建築物が、彼の周囲を囲むかのように無造作に並んでいた。
 これが何処かの異国であれば、どれほど彼は救われる思いだっただろうか。しかし、そこに在ったのは文化も時代もまるで脈絡のない、ただ雑然とした無秩序さを誇っているではないか。
 しかも、過去の偉容を偲ばせるとはいえ、その全てがもはや見る影もない状態なのだ。少なくとも彼の知識と記憶の限りでは、この様な場所は地上の何処にも存在しない筈だった。
 ならば、なぜ己はこのような所に横たわっているのだろうか。自分の屋敷でも、ましてや故郷の街ですらない、この異様な場所で。

――待っててね。今、其処に行くから。

 言い知れぬ寂寥と不安が胸に込み上げようとした瞬間、またもそんな声が聞こえてきて、彼の息を――呼吸をしている感覚すら彼は失っていたが――詰まらせた。
 だが果たして、それは声と呼んで良い物なのだろうか。少なくともそれは物理的な音の波となって鼓膜を震わせるものではなく、彼の意識に直接呼び掛けてくるような代物であったのだから。
 声の主を確かめようと、彼は再び周囲へと視線を巡らせた。しかし、目に飛び込んでくるのはちぐはぐな廃墟の姿だけで、人影らしきものは一つも見当たらない。そして、首を動かしているという感覚は戻らぬばかりか、明らかに関節の可動領域を越えた位置にあると思われる風景までが視覚として捉えられ、彼をいっそう混乱させるだけに終わった。
 改めて考えてみれば、これほど自由に視界を動かせるにも関わらず、己の身体はと言えば指先の一部すら映像として映し出される事がない。肉体の感覚は尚も一切が途絶えたままであり、その上、唯一自由になる視覚にも捉えられぬとあっては、もはや彼は己が本当に存在しているのかさえ疑わしくなっていた。
 何も感じない。ただそれだけの事が、これほどの不安を呼び起こすものなどとは、もともと現実主義的な傾向が強かった彼には想像もできぬ事だった。
 孤独感。寂寥感。そして無力感。時間が経過するにつれ強くなる、それらの感覚。
 不思議な事に、肉体的な感覚は僅かなりとも残されていないというのに、精神的なものは全てが完璧に備わっていた。だが、もしそれが神の差し伸べた憐れみの手であるとすれば、それは慈悲の産物ではなく、無慈悲なる嘲弄に等しかった。
(神よ! 奪うのであれば全てを奪って下さい! これでは余りにも残酷です!)
 知らず、彼は声ならぬ声で祈りを捧げていた。ひたすらに名誉を求め、他の貴族達との権力闘争に明け暮れ、それに付随する金銭的な充足に身も心も捧げた彼にとって、それは幼少期以来の祈りの言葉。実に数十年ぶりに、彼は神の御名を唱えていた。
 無論、そのような不信心者に応える神が居る筈もない。彼自身とて、それは心の奥底で自覚していた。
 だからこそ余計に、一度綻びを生じた精神が瓦解してゆくのは早かった。彼は涙も流さずに咽び泣き、声も洩らさずに嗚咽した。
(助けてくれ! 此処から、この何も無い廃墟から、誰か私を救い出してくれ!)
 それがどれほど厚顔で恥知らずな想いであったとしても、今の彼にはそう願う他に不安を紛らわせ、心を維持する手段を見出せなかった。
 そんな彼の、精神的な曇天を映し出したのだろうか。あれほど澄み切っていた筈の空はいつの間にか黒雲に覆われ、静かに雨が降り始めていた。

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Copyrights (C) CAZ 【2005年07月20日更新】 | 番外 -Short Story- | HOME
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