地平線への鍵 【Sound Horizon考察】

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総合考察 -黒の予言書とは-

 ここでは「Chronicle 2nd」全体を通しての重要な要素となる、「黒の予言書」とはどういう代物であるのかという点について考察していこうと思います。


「黒の予言書/Black Chronicle」
 そもそも、この訳語としての対比を見るだけでも、幾つかの疑問を抱かざるを得ないのではないでしょうか。
 「予言」(未来の出来事、未知の事柄を予め示す行為)を記した書物でありながら、「Chronicle/年代記」(出来事や事件を年ごとに記述した歴史書)でもあるというのは、一般的な観念ではどうにも納得し難いのです。

 「歴史」というのは、既に起こった出来事(≠事実)や、人間社会が時の経過と共に重ねた変遷の過程を、ある種の秩序と観点を元に纏めたもの、という定義が成されています。
 そして「年代記」というのは、そうした「歴史」を記した書物であるのですから、これが同時に「予言書」である為には、未来に及ぶ全ての記述を含めて、本来は等式で結ばれる事が絶対ではない“出来事”と“事実”が、“一切の矛盾を孕まない”という条件が必要とされるのです。
 記述にたった一つの齟齬があれば、「黒の予言書」は玉石混淆なる書物群の石の一つに過ぎず、なんら取るに足らぬものとなります。ですが、それが「年代記」としても認識される以上、この書物に矛盾は存在していないという評価が下された事になります。

 ここで一つ着目しなければならないのは、これが「預言」ではなく、「予言」を記した書であるという点でしょう。
 非常に良く似たこの二つの言葉は、実はその意味に於いて明確に相違していて、「預言」が神や霊などのメタ的存在の意志を媒介して伝えたものとされるのに対し、「予言」は人間の意志で未来について言及したものを指す言葉なのですから。
 つまり「黒の予言書」というのは、所謂「預言者」と呼ばれるような、イエス・キリストやムハンマドら、神の意志を代弁する者として認識される半超越的存在の記したものではなく、あくまでも「人間としての観点」によって著されているという事を示しているのです。
 ですが、それが「人間」によって書かれたものであれば、整合性を備えた「予言書」にして「年代記」など、存在する筈がありません。
 そう、「黒の予言書」とは、曲中でも示されているように、本来なら「存在してはならない書物」という見解を出さざるを得ない代物なのです。


 さて、それでは改めて、記述された内容の方に移りたいと思います。
 幸いな事に、これを考えてゆくに当たっては時系列の判断材料となる「巻数とページ数」が曲中で明言されているので、多少なりとも救いとなっています。ですが、それを踏まえても尚、「始点」及び「終点」、「記述の選定基準」など、考えなくてはならない事は少なくありません。

 では、書の「始点」となるべき記述とは、いったいどのようなものだったと考えられるでしょうか。実はこれに関しては、「黒の予言書」と「雷神の左腕」の二曲に示されているストーリー(歌詞カード参照)によって、ある事実が浮かび上がってくるのです。
 一つに、「黒の予言書」に於ける“そこに記されていたのは 有史以来の数多の記録”という部分。
 もう一つは、「雷神の左腕」に於ける“雷神は右腕を失い 世界は生まれ変わった”という箇所。

 「有史」というからには、所謂『天地創造』などの人間が直接関与していない事象からは筆を起こしてはおらず、「世界は生まれ変わった」というからには、現在の世界が一度終焉を迎えた後の新たなサイクル(循環期)に入っている事を示しています。
 そして、「雷神の左腕」は全曲中で最も古い「第1巻816ページ」に記述された物語であり、これが既に「邪神」との二度目の対決となっています。
 これらの事実から、第1巻の冒頭は「邪神」と「雷神」の最初の対決に関するものである可能性が非常に高く、それは同時に「邪神の封印」という行為が「新たな世界の始まり」であった事にも符合するのです。

 ここで一つ勘違いしないで欲しいのは、私が用いた「新たなサイクル」という表現についてです。これはキリスト教の千年王国期(ミレニアム)思想と同様、大きな転換期に挟まれた一定の期間を意図したものであって、決して閉ざされた期間内で延々とループを繰り返す世界を意味するものではありません。
 さておき、この世界の歴史が「善神(雷神)vs悪神(邪神)」という叙事詩的な事象から始まっていて、「邪神」こそが旧世界(有史以前の世界)を支配していた直接的、あるいは象徴的な存在であった事は、ほぼ間違いないと考えられます。
 これは逆説的に、「邪神」の復活は「現在の世界」の終焉とも同義である事となり、そうなりますと、「Chronicle 2nd」に登場するもう一つの終末を招来せし存在と役どころが重なりますよね。そう、「書の魔獣」です。

 「雷神の系譜」に於ける「地を割る咆哮〜」のくだりを見るに、「邪神」の姿形は人とも獣ともつかぬものであり、どちらかと言えば獣めいた代物である事が明示されています。
 更に同曲では、「黒き法衣を纏いし者達」であり「予言書の使徒」と呼ばれる人間達が、「邪神」の封印を解こうとしているとなっています。
 この人間達は明らかに、「黒の教団」の者であると考えられますが、だとすれば幾つか注意して見なければならなくなります。

 過去は疎か未来にまで及ぶ“事実”が書かれた「黒の予言書」を信奉する彼らは、言うなれば「運命論者」の集まりです。
 そんな人間が、己が盲信する全二十四巻から成る書物(もっともこの巻数は押収された時点でのものですから、著された当初はもっと少なかった可能性も否定できません)に書かれた“世界の終焉”を、こうも早い段階で招き寄せようとしたと考えるには、少々違和感がありはしないでしょうか。
 繰り返しになりますが、「黒の予言書」に記述された出来事は、全てが“事実”であり“真実”です。ならば「雷神の系譜」で描かれる「三度目の嵐」の結果も、彼らは予め知っていた筈なのです。
 それでいて彼らは、「邪神」の封印を解こうとした。この事実は、よくよく留意しなければなりません。これこそが、「黒の予言書」を読み解く上で重要な、「記述の選定基準」の判断材料にもなるからです。

 「黒の教団」の行動原理として推測されるのは、主に二つあると考えられます。

1.書の記述にあるこの年の出来事として邪神の復活が示されており、「黒の予言書」の正当性を確認せんが為に能動的な行動を起こした。

2.これより過去の時点では“世界の終焉”に当たるのがこの年であり、それが故に邪神の復活を企てたが、雷神の子孫の抵抗によって“事実”が修正された。

 恐らく1に関しては、皆さんも直ぐに納得頂けるでしょうが、2に関してはどうでしょうか。
 大前提である筈の「書の記述は“事実”であり“真実”である」という点に矛盾すると感じる方も、少なくないのではないかと思われます。
 ですがこれは、この世界の人間には知覚できずとも、メタ的な視点では決してパラドックスを来すようなものではなく、むしろそうであったからこそ書に記述されたのでは重要な出来事である故に、「楽曲」として私達に提示された事象に成り得たのではないでしょうか。

 ここまで言えば、聡い方にはお解りでしょう。この「雷神の系譜」に描かれた出来事というのは、書の記述が“改竄されかけた”ターニング・ポイント、曰く“別の運命に囚われた事象”に他ならないという見方が可能なのです。
 他の楽曲に関しても、この条件は当て嵌まると考えられます。

 真実を後世に伝える二人の“バラッド”の存在は、時に歴史そのものを修正させる「黒の予言書」にとっては脅威に他なりませんし(二人の“詩”が予言書の記述との間に矛盾を来す可能性がある)、アルベール・アルヴァレスの動向は「書の記述」の枠を超えかけたのでしょう。
 蒼の歌姫ジュリエッタがイターニア王妃になっては都合が悪く、海賊レティーシアとアグネスの出会いは、その後に起こる出来事にとって重要な意味を持つ事象なのでしょう。

 そう、これらの楽曲には全て、意図の有る無しに関係なく「歴史=書の記述」に抗った者達の物語が描かれており、「書の記述が変更された」、若しくは「変更され掛けた」蓋然性を含む事象であるという共通性が存在するのです。
 偏に、これこそが記述の「選定基準」なのであろうという推測に結び付きます。

 唐突ですが、皆さんは「シュレーディンガーの猫」をご存じでしょうか。ある状況下に於ける箱の中に一匹の猫を入れ、猫の状態(生死)を知るには箱を開けるまで判らないという、量子力学の分野に於ける有名な思考実験であり、タイム・パラドックスを扱う文学作品などにも「箱の中の猫と一緒」などと良く引用されています。
 この思考実験に対する主流な解釈となっているのは、観測者が箱を開けて観測を行った瞬間、波動関数の収束が成され(事実が規定され)、猫の状態群が一つの状態に収縮するという、コペンハーゲン解釈。そしてコペンハーゲン解釈に並ぶ、一般に「平行世界説」という通俗的なイメージが先行してしまっている感の強いエヴェレット解釈(多世界解釈)という二つの解釈があるのですが、2の解説をするにはコペンハーゲン解釈を取るのが有用であると考えました。(両解釈の詳細については、ネット検索で簡単に出てきます)

 本来、コペンハーゲン解釈は前提として「観測者」を特別視している為、どのような存在であれば「観測者」とみなせるか、(波動関数の)収縮を起こすことが可能となる十分条件とは何か、という点がよく議論の争点となる代物です。
 ところが、「黒の予言書」を考察するに当たっては、この「特別な観測者」が明確な形で存在するんですよね…。しかも、メタ存在を含めれば二人(?)も。

 メタ存在の方は、言うまでもなく〈書の意思の総体〉たるクロニカです。コペンハーゲン解釈に照らし合わせた場合、絶対の「観測者」たる彼女の存在がある以上、「黒の予言書」の記述は永劫に“事実”で有り続ける事になります。
 そして、メタ視点で無い場合の「観測者」は、「黒の予言書」を著した筆者です。

 この「黒の予言書の筆者」については公式に見解が発表されていて、「永遠を手に入れた魔術師ノア」というのが、その答えでした。初めてそれを聞いた時、私は直ぐさま納得したものです。
 何故かと言いますと、そう考えると色々と疑問が解けるのですよ。ルキアがノアを打倒しようと思い至った動機や、まるで彼女の無知を哀れんでいるような《養父》の台詞の意味などです。

 「黒の予言書」の筆者たる形而下での「観測者」が、不死性を備えた存在であるならば、コペンハーゲン解釈に当て嵌めた場合、ノアとクロニカを隔てる要素は何処にもありません。
 どちらにせよ、波動関数の収束が成される(“事実”の規定が成される)基点が、どの時代にあっても常に存在する事になるからです。
 つまり、ノアという人間が生きている以上、如何に歴史(書の記述)を変えようと足掻こうとしても、それは全て“既に書に記されている”事象である枠を出る事が適わないという仕組みが、厳然と確立されてしまっている事になるのですよ。

 この事実に行き当たれば、ルキアの動機は容易に推測できます。「人々の手に“真の自由”を取り戻すには、“観測者”たるノアを殺す以外に方法がない」という結論を、彼女は導き出したのでしょう。
 ですが、彼女は知りません。そのノアですら、歴史の手の平の上に囚われた人間に過ぎぬという事を
 故にこそ、養女たちの考えを知ったノアは、慨嘆するのです。「君ならば書の真理が〜」と。

 私が思うに、ノアはこの後、わざと彼女に殺されてやったのではないでしょうか(彼が死ねるのかというのは別問題として)。
 そしてルキアは自らの手を血で染めながら、絶望と共に悟るのでしょう。「何も変わりはしない」のだという事を。真の「観測者」たるクロニカは、決して人の手では届かぬ(おそらく知覚すら出来ない)場所に存在するのですから。
 そう、〈書の意思の総体〉にして「絶対の観測者」たるクロニカが存在する以上、終焉を招く「書の魔獣」は誰にも止められないのです。

 ですが、本当に方法はないのでしょうか。雷神とその子孫は、それを曲がりなりとはいえ遅延させる事に成功したのに?
 「有史以前の世界のサイクル」が「邪神=書の魔獣」に象徴されるならば、ノアの言う「この旧世界」たる「現在の世界のサイクル」を象徴するのは、なんでしょうか?
 皆さんには、もうお解りの事でしょう。故にこそ、この世界(アルバム)の名は「Chronicle」なのですから。しかし、物語の登場人物に過ぎぬルキアは、それに気付く事ができたのでしょうか。

 Track20「〈ハジマリ〉のChronicle」の存在が、その答えです。ルキアは真相に気付き、「世界」は再び新たなサイクルへと、《時を超え甦るハジマリの地平線》へと辿りつきます。 「黒の予言書」が存在せぬ、新世界へと。
 無論、それが根本的な問題の解決となっているかどうか、神ならざる私たち人間が知り得る事は適いません。

 何故ならクロニカですら、結局は《代弁者》に過ぎないのでしょうから……。
Copyrights (C) CAZ 【2005年07月15日更新】 | Chronicle 2nd | HOME
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