ここで触れるのは、「笛吹き男とパレード」と「Track44」及び総括的な結論についてです。
この総合考察では、エリ組全体を通しての総括的な評釈を綴っておりますので、Phase-3以前を未読の方には不明な点が多々あります。
もし未読の方であれば、ここに目を通す前にPhase-3以前からご覧下さい。
「そのパレードは何処からやって来たのだろうか…」
謎が多いとされるSHの楽曲群。そして、今作「Elysion〜楽園幻想物語組曲〜」の中でも特に曖昧な表現が為されているのが、この「笛吹き男とパレード」ではないでしょうか。
トラックの構成上や、「魔女とラフレンツェ」と同じ「エルの絵本」というタイトルを持つ事から、「Elysionサイド」に属すると考えられるにも関わらず、内容を見てみるとどう考えても「Abyssサイド」側にこそ汲みしている。
しかし、“どちらなのか”という思考に囚われること自体が、そもそもの間違いなのでしょう。
今更わたしの口から言うまでもないことですが、この作品は「Elysion」と「Abyss」を表裏一体の存在とし、両者の視点から一つの物語を形成してゆくという手法を取っています。
「エルの楽園」と題された本作のメインタイトルと言える曲でさえ、「side:E」(Elysion)及び「side:A」(Abyss)という二つの観点から織り成されているのですから、これはもう自明の事です。
けれど、皆さん少し考えてみて下さい。もしも、この「Elysion」という物語をノベル形式のものに置き換えるならば、表裏一体を謳いながら両者の対比のみに終始するというのは、物語の構造としては果たして完全なものだと言えるでしょうか?
そうなんです。起承転結の“結”に当たる部分が、この対比的な捉え方では欠落してしまうのです。
ならば、本作に於ける“結”に当たるのは何なのか。そう考えた時に真っ先に浮かび上がるのが、「Elysionサイド」と「Abyssサイド」の両面に属するであろうと思われる、この「笛吹き男とパレード」でした。(「side:A」は、エル=エリスという少女の物語の終局ではあっても、「Abyssサイド」をも含む全体の結末には成り得ません)
私は、この曲こそが物語り全体を包括するという結論に至ったが故に、時系列の末尾に配置した訳であり、それは同時に、全てを包括する筈のこの曲を読み解かなければ、エリ組という大きな一つの物語を理解できたとは言えないという事に他なりません。
では、それを踏まえた上で曲の内容に触れていく事にしましょう。
これは誰であっても一目瞭然ですが、楽曲そのもののモチーフは「ハーメルンの笛吹き」です。
この「笛吹き男/Pied Piper」は、ヨプス・フィンツェリウスという16世紀の神学者らには“悪魔”と同一視されており、これによって所謂“死神”的な顔を持つに至ったという経緯を持っています。
ですから、エリ組に於ける“死神”の立ち位置を有する「仮面の男Abyss」が「笛吹き男」である点については、これは道理です。
なので、前回の考察で答えを出した“冥府の橋渡し役”という役割を鑑みれば、この「楽園パレード」は死者達を冥府へ誘う過程でなければならないのですが、そう考えるには些か様子がおかしい。
曲中に出てくる語句であります、「仮初めの終焉」、「夕陽を裏切って」などがその訝しさの一因であり、パレード参列に当たって「心に深い傷を負った者」や「心に深い闇を飼った者」などという条件が加味される理由も不可解です。
そして極めつけは、「来る者は拒まないが、去る者は決して赦さない」という「仮面の男Abyss」の台詞。
これはつまり、道理に反する背信的な行為を示唆しているのではないでしょうか?
同曲に頻出する言葉として、「夕陽」が有ります。
おそらくこの「夕陽」は、生命の落日、つまり「死」のイメージであると思われるのですが、だとすればそれに“背を向けて”いたり“裏切って”いる彼らは、“人としての真っ当な死”を拒んでいるという事になるのです。
そして、彼らの目指す「世界の果て」ですが、これは言わずもがな「楽園/Elysion」でしょう。
日の沈む方向とは反対へ進むという行為も、実はそれを暗喩しています。
何故かと言いますと、欧州に於ける楽園や理想郷というのは、その殆どが“東”に存在するとされているからです。
無論これには、大西洋という“世界の果て”が直ぐそこに存在した事や、キリスト教徒にとっての聖地であるエルサレムの位置などが原因なのでしょうが、私がざっと思いつく限りでも、「エデンの園」、「シャングリ・ラ」、「プレステ・ジョアン」、「ザナドゥ」などは、全て東の地に存在すると考えられていました。
ですから、“東へ向かう”という行為そのものが、「楽園」を目指すという意味合いに受け取る事が可能であると思われるのです。
そして、前述したパレード参列の条件に併せ、この行進に参加する事となる「Abyssサイド」の五人娘。
彼女達と「仮面の男Abyss」には、“深い愛情の果てに自らの身をも滅ぼした”という共通項があります。
この事から、パレードに参列する者は、魂の性質に於いて“同種”の人間ばかりであるという見方が成り立ちます。
前回、「仮面の男Abyss」は永劫に「エリス」を探し求めると書きましたが、彼女たち五人の娘はどうでしょう?
ソロルは“フラーテル”に。バロックの娘は“彼女”に。イェールドの娘は“男”に。サクリファイスの娘は“妹”に。スターダストの娘は“彼”に。
果たして冥府で再会できると思えますか? 私には到底そうは思えません。
天国と地獄に準ずる概念に当て嵌めるなら、彼女達が向かう先は「地獄=Abyss」であり、想い人が向かった先は「天国=Elysion」であるだろうと思われるからです。
つまり彼女達には、“人としての真っ当な死”を拒む理由があるのです。「仮面の男Abyss」と同じように、定められている運命に抗おうとするだけの動機があるのです。
ならば、それこそがこの「楽園パレード」の実体なのではないでしょうか。「夕陽=尋常な死」を受け入れず、ほんの僅かな希望に縋って「楽園=想い人」の魂を探し続ける、死者達の行進。それはまさに、「黄昏の葬列」と呼ぶに相応しい代物でしょう。
「このままでは、君たちは想い人に二度と会う事は適わない。だが…」
「仮面の男Abyss」の吹き鳴らす笛の音は、そんな甘言に満ちているのでしょう。
そして、それが明確な背信行為であるという自覚があればこそ、来る者は拒まずとも去る者は赦されない。
そしてここで、「男の肩に座った少女」という存在に注目して下さい。
これがもし「エリス」だとすれば、途轍もなく強烈です。何しろ、「私は想いを果たしたぞ」という実証になるのですから、想い人に未練を抱く彼女達が「仮面の男」の誘いに抗える筈がありません。
運命に逆らい続けた果てに、「仮面の男Abyss」は「エリス」と再び巡り会う事が出来た。
だが、「エリス」の魂が再び去ってしまっては元も子もない為、“冥府への橋渡し役”である自分が存在する“死の淵”(淵ですから、これもAbyss)に留め置いている。
そして、自分はこうして叛逆に成功したのだから、君たちもそんなものに従う必要は無い。
この“仮初めの終焉”に留まり、君たちの「楽園/想い人」を探そうではないか。
「男の肩に座った少女」を「エリス」だと解釈するならば、この「笛吹き男とパレード」の内容は上のような代物となります。
この場合、「エリス」が見つかっているならば「Abyssサイド」で彼女を捜している点と矛盾するのですが、そもそも「時間」という概念の束縛を受けていない「仮面の男Abyss」にとって、果たしてこれが矛盾に成り得るのかどうか…。
「笛吹き男とパレード」はあくまで“結果”ですので、“過程”である「Abyssサイド」に於ける行為は全て“必然”ですしね…。
この辺りは、それこそRevo氏の解釈がどうなっているかという点に尽きますから、私にはこのパラドックスについて「矛盾せぬように捉える事は可能」であるとしか言い置く事が出来ません。
これで一応は、納得のハッピーエンド(?)ですしね。
なのですが…。
私の中に居る悪魔がひっきりなしに囁くのですよ。
「あのRevo氏が、そんな救いのある結末を用意してるのか?」という、甚だしく失礼に当たるやもしれぬ憶測を。
何故なら、上記の説では「燃えるような紅い髪の女」や「グロい首吊りピエロのタトゥーが笑う」などの部分が未消化なんですよね。
ですから、ここから先は私が考えたもう一つの可能性に言及していきますが、誰が何と言おうとハッピーエンドが好き! という方は、ここから先は読まずに上記の説で納得しておいて下さい。
何も臆する事はありません。殆ど全てのSHファンは、「男の肩に座った少女」を「エリス」だと捉えていますから、あなたは立派なマジョリティです。
それを強く言い置いた上で、マイノリティ街道一直線の異説をば、ここに提唱させて頂きます。
私が考えたもう一つの可能性。それは「男の肩に座った少女」が“ラフレンツェ”なのではないかというものです。
誤解の無いように言っておきますが、ここでいう“ラフレンツェ”は、正確には「死者」としての存在。つまりは“ラフレンツェの魂”です。
これは宗教形態によって大きく変わってくるのですが、世界各地の多くでは、死者の魂というのは“生前にあって己が好んだ年齢の姿”をとれるものだと考えられています。
この点を踏まえてみると、「燃えるような紅い髪の女」に関しても、その正体が見えては来ませんか?
ラフレンツェに関わりがあり、“紅”というキーワードを持つ女性。そう、深紅の魔女オルドローズです。
同曲に於ける「男の肩に座った少女」には、容姿に関する描写は一切ありません。
ですから余り拘る必要もないのですが、「エリス」の娘にして「エル」の母親であるラフレンツェならば、幼少期の姿は「エリス≒エル」に酷似していただろうと想像する事は容易です。
とはいえ、これは別に「仮面の男Abyss」を欺く為に幼い時の姿をとっているというよりは、むしろ彼を“嘲笑う”為のものだと考えます。
些か寓意的に過ぎる感はありますが、そこに至る経緯の詳細は、以下のようになるでしょうか。
オルフェウスである「仮面の男」に裏切られたラフレンツェは、彼に“呪い”を掛けた後に自らの命を絶つ。
↓
冥府にてオルドローズに再会。(“冥府の番人”という役目を担っていたラフレンツェは、死後も冥府内でも自由な行動がとれたと思われる)祖母の協力を取り付け、“呪い”によってオルフェウスが“冥府の橋渡し役”である「仮面の男」へと変わり果てるのを待つ。
↓
“呪い”の成就により、「仮面の男Abyss」誕生。同じように“死の淵”を流離う存在となった、かつての“黄泉の番人”であるラフレンツェが、祖母オルドローズと共に彼の“監督官”(のようなもの)となる。
↓
彼が求め続ける「エリス」の姿をとる事により、裏切り者である「仮面の男」を嘲笑いながらも、彼と共に在るという事に喜びも覚えており、故に歌っている。(彼女にしてみれば、形は違えどようやく彼を手に入れたようなものですからね)
つまり、楽園パレードの真の支配者は「男の肩に座った少女」であるラフレンツェであり、見果てぬ望みを抱きながら彷徨を続ける「仮面の男」と、それに随従する死者たちを嘲笑い続けている。という訳ですね。
著しくラフレンツェのイメージを破壊しそうな結論ですが、少なくとも個人的には、これが最も納得の出来る推測でした。
この説でいけば、ラフレンツェから見た「仮面の男」たちは、まさに永遠に踊り続ける道化です。この点が、「グロい首吊りピエロのタトゥーが笑う」という表現に繋がるのではないでしょうか。
それでも尚、諦める事を知らずに抗い続ける「仮面の男Abyss」。同じ願望を持つ死者達が彼に追随してゆく。
そして、それを無駄だと嘲笑いながら、彼らの行進に付き従うかのように振る舞うラフレンツェとオルドローズ。
時間という概念すら存在しない彼らのパレードは、永劫に終わることなく“何処までも続いてゆく”。
なんとも救いの無い結末ですが、その実、この「Elysion」という作品が内包する“闇”の部分には相応しいという思いもあります。
前述した「Abyssサイド」に於ける矛盾も、この場合には発生しませんしね。
という訳で、私が推すのはこの「男の肩に座った少女=ラフレンツェ」説なのですが、これに関してはどちらが正解という風に分けて考える必要もないように思います。
この物語は、「Elysion」と「Abyss」という表裏の存在を歌ったもの。ならば、その結末が両極の可能性を秘めていても、それはそれで実に“らしい”と言えるものではないでしょうか。
さて、これにて「笛吹き男とパレード」を通しての「物語としてのエリ組の結末」の考察は終わりなのですが、まだ解き明かさなくてはならない命題が残されていますよね。
それは勿論、「Track44」についてです。
この中で述べられています、「その男の妄念が永遠を孕ませるならば」という部分に関しましては、これまでの考察を振り返れば納得頂けるものと思います。
ですが、その後に続く「物語という歴史は幾度でも繰り返されるだろう」という部分については、「エルの楽園」に於ける「幾度目かの楽園の扉」や「幾度となく開かれる扉」と同様、これまでの内容からでは解釈ができません。
私はPhase-2に於いて、これらの語句を根拠とする「ループ説」を否定しました。
ここまで読んで下さった方には明快の事と存じますが、私が考察した内容は、もしこれがループし続ける物語なら成り立たず、もしもその説を取り入れるならば、永劫の存在である「仮面の男Abyss」が無数に存在する事になってしまいます。
とはいえ、そのパラドックスだけでは「ループ説」を否定するには少々弱い。
されど、「Track44」の最後にて私達に問い掛けられている「楽園の真実の名」という命題に答えを示す事で、それを補強できると考えました。
皆さんは、「Elysion〜楽園幻想物語組曲〜」という一つの物語を通して、どの様なものが描かれていると感じたでしょうか。
私は、“表裏一体”であり、“不可分”であり、“対極”ですらある二つの感情こそが、この作品の主題であると考えました。
それを言い表す語句は、作品中にも何度か登場しています。そして、それこそが「楽園の真実の名」という命題に対する、私の回答でした。
「愛憎」。
愛情たる「Elysion」。憎悪たる「Abyss」。それが、私の結論です。
文学作品では良く使われる言い回しですが、愛と憎しみは別々の存在ではありません。「愛」の対義語は「無関心」であり、「憎しみ」は「愛情」の裏返しでしかないとされています。相手への執着という点で、両者は同質のものだからです。
そして、この「愛憎/LOVE and HATRED」こそが、「繰り返される」という表現の答えにも成り得るのです。
ごくありふれた、誰もが抱く当たり前の感情。
故に今この瞬間でさえ、その物語は何処かで“繰り返され”、新たな“扉を開き続けて”いる。
つまり「Track44」の「物語という歴史は幾度でも繰り返されるだろう」という部分は、「Abyssサイド」の五人娘のように、“愛憎の果てに身を滅ぼしてさえ相手を求め続け、楽園パレードに参列する者は増え続けるだろう”という意味合いの言葉なのです。
どうです? これで「ループ説」なんてものが入り込む余地は、何処にも無いでしょう?
さあ、よく目を凝らしてみて下さい。
私の、そして皆さんの目の前にも、“楽園への扉”は常に存在している筈ですから…。
地平線への鍵 【Sound Horizon考察】
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